ブログ

【番外編 ネタバレ注意】映画「沈黙」について

映画「沈黙」見に行ってきました

遠藤周作の代表作「沈黙」(1966年)が映画化され、1月21日土曜日に封切りされました。江戸時代初期、最もキリスト教弾圧が厳しかった時代のポルトガル人司祭がのちに弾圧に耐えられず棄教していくまでのストーリーになっています。

私はこの「沈黙」と初めて出会ったのは、16歳の頃で、まだ教会に行ったこともありませんでした。

「早く踏み絵を踏んでたら、もっと楽だったのに。ようわからん」というのが、私の当時の感想でした。彼等が何に苦悶し、葛藤し、何に敗北感を感じているのかがよくわかりませんでした。

「なんかようわからん」とがっかりしながら、図書館で本を返却したのをうっすらと覚えています。

つまりは、沈黙との出会いは四半世紀ぶりだったわけです。

そんなわけで、「つまらん本やった」という記憶しかわたしにはなく、映画も行く気もしていませんでした。

ところが、うちの夫ひよこさんが、「沈黙、見に行こう!」とプッシュしてきまして、それで気持ちが揺らいだんです。

さらに…。

Facebookで牧師さんたちがそろって、「日本の牧師に捧げる」みたいなテロップがエンディングに出ているのを見てカチンとしたという投稿をしているのを見て(多分初日に見に行っていらしたんでしょうね)、さらにこの映画を見に行きたいと思いました。正しくは、もっと衝撃的なテロップだったのですが、それは映画館に行ってからのお楽しみにしてください〜。

「弾圧に負けて棄教する司祭の話なんか見たくもねーわ」

という方こそ、本当に観て欲しい映画です。なぜか。

 

 

遠藤周作がなぜ棄教者を主人公にしたのかの視点がすごい

これは二次情報でウィキペディアに頼ることになるのですが、遠藤周作さんは、書籍が発表された8年後の1974年『切支丹の里』で、棄教者についてつぎのように触れています。

↓まだこれは読んでいないので、読んだらまたレビューを書きます

読んだ後味が悪すぎて、すっかり忘れていたのが主人公ロドリゴの棄教だった。

映画の中の伏線もすごかった。通辞(奉行所での通訳者)の発言も印象的だった。宣教師たちがいつまでも日本語を覚えないし、文化になじもうとしないのは、俺らを下に見ているからだ、そういうやつらは必ず「コロブ」(棄教)的なことを言う。

 

衝撃的だったのは、いよいよクライマックスにかかったシーン。穴吊りの処刑場の中にある小屋で一つの祈りが彫られているのを見つける。それを棄教して帰化した元司祭フェレイラに「これは俺が彫った」と告白される。

「おまえは自分をイエスと重ねている以上、絶対コロブ」的なことを言われる。「俺もそうだったからだ」と。

「イエス様のように俺は祈り殉教していくんだ」というロドリゴの心理状態と苦悩をフェレイラは見透かしている。

 

私達の中のロドリゴとキチジロー

この映画は、私達の中にあるロドリゴとキチジローを見出させてくれる映画だ。

ロドリゴもキチジローも最終的には神様の御手にあるにちがいない。(物語はそう示唆している)

神様は、弱くコロブ人間だからこそ共にいてくれている。

 

私がこの映画から「沈黙とは何か」を学んだとすれば、それは私たちが「神様が沈黙している」と確信している状態ではないかと。

神は共にいる。音は聞こえない。私たちに自由意思を与えた以上、その意思で持って裏切ったとしても何度も何度も神様は寄り添おうとしている。その音がしない状態を沈黙と受け取るか、それとも愛と受け取るか。

私たちに日々つきつけられている過大なのである。

 

結婚相談所にご入会をご検討されている方へ

ご入会申し込みはこちらから

無料カウンセリング受付フォームです。 必要事項をご記入の上、送信ください。ケータイ、スマホのアドレスをご利用のお客様は、PC受信設定をお願い致します。自動配信メールが届きます。もし、自動配信メールが届いていないお客様がおりましたら、弊社までお問い合わせください。
都道府県
性別
ご職業
お仕事がお休みの日
不定期を選ばれた方は土日祝日に休みはとれますか
たばこは吸いますか
結婚経験の有無
お子さんはいらっしゃいますか
礼拝に通う頻度(クリスチャン限定なのでご了承ください)

 

-ブログ